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 色川武大と阿佐田哲也が同一人物であることは
小説を読んだ人ならだれでも知っている。
 別名であっても同一人物であるこの場合が
日本書紀と古事記の記載においても頻出しているのだ。
これまで書いてきた中では、昆支と雄略がその代表例であるが、
このようなケースは、枚挙に暇がないといえる。

 さて、姫王と書いて、「おおきみ」と読ませる場合がある。

 通常、「おおきみ」とは、「大王」のことを指す。
何故、姫王と書いて、「おおきみ」と読ませる場合があるのだろう?

 姫王がつく7世紀の有名人は、なんといっても「額田姫王」だろう。
万葉集の秀歌をいくつも詠んでいる有名歌人であるが、
彼女は、ただの歌人なのだろうか。彼女の正体は?

 井上靖の小説に「額田姫王」があり、何度も読んだものだが
采女クラスの女性として、中大兄と大海の両者から愛される歌人として描かれている。

 飛鳥時代の才女に違いないのだが、はたして采女クラスの女だったのだろうか?
彼女の父親は誰?
どこで生まれたのか?
なぜ、姫王と呼ばれ、「おおきみ」と読まれる存在なのか?

 アッシを納得させる説にこれまでであったことがなかったのだが

 彼女の出自を解くカギは万葉集に残された彼女の歌の数々から推論できる。



 
 例えば、春秋の歌。
 歌の最後に、秋山ぞ我はと詠んで、
秋に軍配を挙げている。

 陰陽五行でいえば、天智は金徳であり、
方向は西、季節は秋、色は白、四神は白虎で表される。

 大海は木徳であり、東、春、青、青竜であらわされる。

秋山ぞ我はと詠んで、金徳に有ることを宣言しているのだ。

彼女の歌の多くが、難解であり、当時の朝鮮半島の言葉で
裏読み出来るとも言われている。

 結論を先に書けば、
彼女は、610年代後半から620年代中に
列島で生まれたが、最初に嫁いだのは、新羅の金春秋(武烈王)、
10代を嫁ぎ先の朝鮮半島の新羅の慶州で成人過ぎまでを過ごし、
百済と新羅の和親の役目を果たした後、新羅の政情によって百済に戻り
父の死去に伴う百済の政変によって日本列島に亡命した
帰国子女であり、父親は、舒明天皇(田村皇子)ということになる。

舒明・額田父娘は、万葉仮名をこの世に送り出した父娘ではないか?
というのも、父の舒明(百済の武王)も田村皇子として日本に何度か
滞在しているからである。
例としては、田村皇子時代に、聖徳太子から熊凝道場を譲られていることが挙げられる。

 二人ともに、列島の言葉も、半島の言葉も理解し、
話せ、唯一の文字である漢字の音や
漢字に対する列島の訓読み、半島の吏読を
縦横無尽に操って歌を詠める、歌を木簡に書ける王族であったということになる。

額田は、中大江と大海の反唐国連合の証として大海に嫁し、十市皇女を生み、
壬申の乱の数年前に、反唐から唐との和平に方針転換した
異母兄(弟)である中大兄の元に戻って後、
天智の都である大津宮で過ごし、
壬申の乱の後には、飛鳥浄御原宮付近に居住して
藤原大島と再々婚した。

大海の息子である弓削皇子との歌のやりとりをしているところから
697年の文武天皇即位あたりまで生存していたと考えられる。

 すなわち、日本書記においては、
外国の王の娘であり、外国の王の皇后であった女性に
「姫王」は使われているのではないか?

 この推論からすると、山背姫王とも書かれる山辺皇女も
額田姫王と同じような境遇にあったと推論される。

 山辺皇女の正体についてはまた明日。
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