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 卑弥呼のことは、「親魏倭王」と
魏志倭人伝に記されだけではなく、
三国史記にも、新羅(辰韓)への送使の記載があり
その存在と活躍の時期は確認されるわけだが、
240年から247年にかけて
列島は動乱に見舞われる。


魏は明帝の時代であり、司馬懿仲達が実権を握っていた。
明帝は238年末に逝去し、明帝の忠臣「かん丘倹」は、
遼東から半島及び列島に影響力を行使していたが
司馬懿との権力闘争に敗れることとなり255年に死ぬ。

 238年から239年にかけて
帯方郡の太守も、明帝「かん丘倹」側の劉夏から
司馬側にあった弓遵に交代する。

 鏡の銘に入っている景初三年という元号は、
239年11月までであり、
魏の実権を握った司馬懿は、年末に暦を改め
240年1月を正始元年として元号を変える予定でいた。
 しかし、景初四年銘の鏡も存在する。
景初四年は239年12月の一月だけの期間である。

晋書には、正始元年に東倭が朝貢してきたと記載されている。
弓遵は、死者を列島に送り倭王を任命している。
つまり、弓遵が王に任命したのは、東倭王であったのでる。

 三国志の編者である陳寿は、魏の臣として邪馬台国のみを記載し
西晋の晋書では、東倭のことだけが記載されていると推定する。
 
 この状況は魏(丘倹)辰韓を後ろ盾とする邪馬台国が
魏(司馬氏)・高句麗・東倭・狗奴国連合に敗れる結果をもたらす。
その動乱の中で、卑弥呼は247年中に没する。

そして乗り込んできたのが、かん丘倹に高句麗を滅ぼされた
東倭王の娘婿である高句麗の東川王だった。

 張政は、倭の内乱を調停に来た時には、
東川王達による列島支配が固まり
三角縁神獣鏡は東川王のレガリアとして、
列島諸国に配ったものと思われる。
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