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大野東人は、近江朝の忠臣、大野果安の息子である
672年、壬申の乱で、近江朝側の武将として奮戦したが
天武天皇に逆らった形になって、天武朝では、逼塞していた

その息子の東人は、壬申の乱時には
10代前半ではなかったかと推定するが
元正朝から頭角を現し、物部麻呂亡き後、
BC720年代からBC742年に亡くなるまで
多賀城にあって、日本の軍事の中心にあった

特に、740年の藤原広嗣
(不比等の4子の一人、宇合の息子)の乱にあたっては、
東国兵を纏め、九州に遠征、乱の鎮圧に最も功績のあった人である
広嗣は、天平聖武の股肱の臣であり、天平聖武の野望を打ち砕いたのが東人だった
多賀城跡の発掘は、今でも行われており
河北新報には、時折、発掘に関する記事が載る

多賀城の規模は、考えられているよりも相当、広大だったと推定される

対蝦夷対策だけでなく、海外からの侵略にも
対応していたのではないかと推定されるような金石文も残っている
そう、多賀城碑である

碑文の視界には、常陸や出羽だけでなく
靺鞨との境界まで3000里とあるのがそれだ

実際、727年、橘諸兄(橘美千代の息子、聖武の妻光明子の異父兄)が、
渤海から、奥州を経由して畿内に
首領「高斉徳」を送るとき、その妨害に努めているのだ

子供が生まれた場所を、名前にする慣例を考慮すると
(例:百済復興戦の旅中に停泊先で生まれた大伯皇女、大津皇子)
744年、17歳で急死した安積親王は、つまり727年生まれであり
首領「高生徳」の息子として、この時期、東北の安積で
生まれたと考えられないだろうか?

 渤海の使者は、東人の襲撃によって、多くの死者を出しながらも
728年までには畿内に入り、
729年2月、長屋王は、高斉徳来日を画策した舎人親王や
藤原宇合らによって、妻の吉備内親王(元正天皇の妹)や
子女を含め、一族皆殺しにされるのだ。
(黄文王など、不比等の娘との間の子は残った)

宇合は、不比等の三男であるが、4子の中で最も武に優れ、
西海道按察使などを歴任している。
更に、遣唐使の一員として長安に滞在したことがあり
その時期の長安には、渤海の皇子「大武芸」も、質子として滞在していたのだ
大武芸は、719年に即位して二代目の渤海王となり
親新羅・反渤海の長屋王の排除に向け、
天武系皇子や藤原宇合らと利害が一致し
示し合わせた可能性が濃厚である。

長屋王は、高市皇子の長子であり
大野東人は高市皇子→長屋王に忠誠を尽くした武臣だった

長屋王は、自分にとって不吉な使者である渤海使の入京を阻止するため
大野東人に、入京阻止を指令したが、東人はその使命を果たせなかったのである
それには、渤海使に対する在地の国司らの協力もあった
(国司の動向がどちらにあるのか疑心暗鬼になっていた橘諸兄の不安を、
酌に出た在地の采女が、機転を利かせて取り除いた など)

元号の神亀は、724-729
     天平は、729-749
   神亀の聖武は、729年には殺され、天平の聖武にすり替えられた
   二人は、文武天皇の異母兄弟である
   殺された神亀の聖武は、わずか1年で亡くなった基王として
 母、元明天皇の陵に倍葬された

  妻(文武皇后であった事実は抹殺されている)である元明天皇に譲位し、
高文簡として、渤海の初代大祚栄とともに、対唐最後の戦いに
707年、中国東北地方に遠征した文武天皇の
在地女性との間に生まれた忘れ形見が、
首領、高斉徳である

 715年、高文簡は唐に降伏、長安に連行され、元明朝も終わる
 同じ年、天武天皇皇子の穂積皇子や志貴皇子も殺され、
志貴皇子の息子で、まだ7歳だった白壁王(後の光仁天皇)は
母方の勢力圏、半島の帯方郡方面、旧百済の故地に亡命する
 
 長屋王と物部麻呂の武力に支えられ元正天皇が即位するのである
 やがて、物部麻呂が死に、親新羅に方針転換した長屋王によって
元正天皇 は譲位させられ、新羅聖徳王(神文王の弟、文武天皇の4男)の
異母弟である首皇子=神亀の聖武が即位するのだ
      

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秋篠宮家の眞子さまの結婚報道で
一色になった感のある、昨日、今日の報道だったが

あらためて女系とは何かを考えてみる

愛子さまは皇太子の長女
彼女は男系の女子である

今上陛下の退位法案が成立すれば
浩宮徳仁親王が3年以内に天皇となる

彼女は天皇の長女子となる

もし、彼女が皇籍離脱しないで結婚して
その方との男子が生まれたとしたらどうだろう

女系ってなんなんだろう

父親が天皇でなければダメと言ったら
明治天皇の五代孫なんて、お話にならないことになる

血統を保持する、すなわち、「持統」を言うなら、
男女に拘わらず、現天皇の直系こそ、
尊重されるべきことではないのか?

6世紀末から8世紀の半ばまで、
何人もの女帝が即位している

推古天皇は、欽明天皇の娘
皇極天皇(重祚して斉明天皇)は、聖徳太子の娘
(持統天皇は、血統を持するという
その諡号の意味からして、女性ではありえない)
元明天皇(阿閉皇女)は、天智天皇の娘
元正天皇(氷高皇女)は、天武天皇の娘
孝謙天皇(重祚して称徳天皇)は、聖武天皇の娘

この方々の即位期間に、成年皇子が一人もいなかった訳ではない
当時の国際関係の中で、女帝即位が行われたのだ

歴史を学べば、天皇家が、
万世一系ではないことは自明である
何回もの易姓革命や大王位簒奪があった
一例を挙げれば
約150年前、明治政府によって、
壬申の乱で殺された大友皇子を
弘文天皇として、諡号を追贈し
即位の事実を認められた例もある
時の政府によって、歴代の即位順が
変更されたのだが、弘文天皇を殺して
即位した天武天皇は、皇位の簒奪者
ということになる


.... 続きを読む

 日中の交流は、少なくとも三千年という
長い時間を数えうる
 アッシの住む山形県の遺跡から
紀元前1000年あたりと推定される
燕の刀銭が出土しているのだ
王権の象徴である斧鉞に相当する刀銭が
送られるということは、その影響下にあった証明となろう

 燕とは、商から周に王朝交代した時代に、
周王の支配下の邦国として、
周王の子弟が封ぜられた邦の一つであり
今の北京辺りを版図とした地域の名称である

商から周の交代は、紀元前11世紀から
紀元前10世紀の間と考えられており
既に、その時代、大陸の東方海上に浮かぶ島の東北部、
今の山形県の庄内平野にあった勢力が
燕の地理的視野に入っていたのだ

 3000年という時間からすれば、極めて短い一時期
15年戦争とも言われる戦争状態が続いて
国交断絶、冷戦を経て、戦争状態が終了するのは
27年後の1972年、日中国交正常化まで続いたわけだ

 南京虐殺があったのかどうかとか
20万人とも30万人とも言われる
中国人民の死者の数の正否はおいておくが

 15年戦争の間に亡くなった
中日両国の兵士や民間人の数は
戦後の混乱期を含めれば
膨大な数になることは間違いのない事実だろう

 ここで言いたいのは、不幸な一時期とは
ここ数年の時期にも、そう言えるのではないかということだ

 中国では、抗日英雄のテレビドラマが連日創られ
連日放送される
歴史教育では、殊更、15年戦争時代の日本の仕業に
焦点をあてて、いかに、日本人が残虐であったか
今でも、小日本、日本鬼子と教え込んでいる

 中華民国の生みの親である孫文が
日本に亡命し、仙台に暮していたことや
多くの日本人の支援者がいたことなどは教えないのだろう

 魯迅の弟、周作人さんに宛てた日本からの手紙や葉書が
大量に発見されたとの本日の新聞記事を読んで
思ったことである

 歴代の中国から多くの事を学んで、自家のものとして
発展を遂げてきた日本は、いつから、見下したり
バカにしたりしはじめたのだろう?

 江戸時代はもとより、幕末の欧米列強のアジア進出には
危機感を共有していたと思われるし
少なくても、日清戦争まではそうではなかったと思われるのだが

 中華とは、世界の中心を意味するが、
確かに中国の王朝は、紀元前から世界帝国・王朝であった
 
1840年のアヘン戦争から国連に復帰し常任理事国になるまで
その影響力が縮小した時期があったとはいえ
政治的にも、経済的にも、文化的にも、周辺諸国に
大きな影響を与え続けたことは疑いようのない事実である

 戦後70年、平和国家日本の姿も含め、
そろそろ、双方に、長い歴史全体を通した
正しい歴史的時期の理解が必要なのではないだろうか?

 

 勝者による敗者の断罪のように
それまでの評価が一変した人物が数多くいる

 明治維新は、王政復古の大号令で始まった
王政復古により、①蘇我蝦夷・入鹿
②北条政子・義時、③足利尊氏などは「大悪人」とされた

 ①大化の改新、②承久の乱、③建武の親政と南北朝の分裂
何れも王政復古や皇室に仇なす者の代表として
明治以降の歴史教育の中でそう教えられてきた

万世一系の皇統は、実際には、
欧州の王朝だったら別系統とされる
いくつかの王朝のつながりで
現在に至っているわけだが
 アッシは、伝承や口伝を否定はしない
 古事記も日本書紀も、神代の事としながらも
何らかの歴史的な事実を反映していると考えるからだ

 それでも、明治政府によって、天皇の系譜に加えられたのが
672年の壬申の乱で殺された天智天皇皇子の大友皇子であり、
弘文天皇と追贈されている(671年に即位していたと推定される)
 時の政府の都合で、天皇が一人増えて歴代数も変えられているのだ

 この時代は激動の時代であり
 即位していたと推定されるのは大友皇子だけではない
聖徳太子も推古の摂政とされているが、隋との交渉では倭王であり
息子の山背大兄皇子は一族族滅され、入鹿暗殺の現場にいた、古人大兄皇子も同様
彼らは、即位していた大王だったから殺されたのだ
(即位していなければ、殺す理由がない
殺したのは、殺さなければ次の大王になれない者達である、)
天武晩年の大津皇子、高市皇子も同様である
(持統という、血統を持するという意味の諡号を
男ではなく、女の鵜野讃良という皇女に与えられることは
本来ありえないことと考える)

 7世紀から8世紀、男子天皇の皇子が何人もいたのに
皇女から即位した女帝が、推古、皇極(斉明として重祚)
元明、元正、孝謙と何人もいたのは何故か
天皇家の姓は何か
隋書には、倭王タリシヒコの姓は阿毎氏と出ている

 斉明は、太子の娘、天智はその子
天武は太子の晩年の息子とすれば
大皇弟という名称は、斉明の異母姉弟という
意味を持っていたのではないか?
高向玄理は太子のブレーンであり
斉明の最初の夫であり、天武の養父であった

 兄弟とされている天智と天武の年齢が不明なのは
王位の簒奪者としての両者にとって
天智も天武も山背を殺害し、天武は天智・大友親子を
殺害して即位した簒奪者であるという意味で
不都合な真実は、当時の機密事項だったのだろう

 天智は、白村江の戦いの後、唐と講和して即位し
唐は、天智系を倭国王位の正統として
反唐を貫いた天武系統を認めず、
女帝は黙認したというのが
8世紀の女帝連続即位の背景にあったことが想像される
遊牧民の有力者から世界帝国を築いた唐は、
自らがそうであったように、中原に鹿を追うものが現れないよう
倭国だけでなく新羅や渤海、吐蕃など
周辺各国の内政に関与し続けたのだ

 1933年生まれの今上天皇は
那須に疎開の経験があり
戦争を経験されている
 去年81歳のお誕生日の会見で
15年戦争という言い方をされた

戦後70年の今年、パラオに慰霊の予定があるとのこと

 1931年の満州事変から
1945年の太平洋戦争の終わりまでを一連の戦争と考えれば
日中は、足掛け15年戦争していたということになる
15年戦争の最後の4年間は
米英が、ハッキリと中華民国に肩入れして
結果、日本が敗れた戦いともいえるのではないか

 ここで忘れてならないのは、戦勝国は中華民国であって
中華人民共和国(建国は、国共内戦に勝利した1949年)
ではなかったということである

 同様に、大韓民国も朝鮮民主主義人民共和国も
1945年9月2日、大日本帝国が降伏文書に調印して
公式に降伏した時点において、この世に存在していなかった
国がなかったのである
 つまり、この3国は、戦勝国ではないのである
(これが、正しい歴史認識だとアッシは思うが)

 日本の側から見れば、
当初の政府の戦闘不拡大方針は軍部に何度も覆されて
次々と戦線は拡大し、軍費も拡大の一途を辿る

 中国の側から見れば、
中華民国政府の支配地域の中に
共産党の支配地域が混在し
また、小軍閥が各地に割拠していた時期を経て
国民党による北伐や1928年の張作霖爆殺後
息子の張学良による1936年12月の西安事件を
契機にした国共合作後は
抗日戦線を結成し、中華民国(国民党)政府は
首都南京陥落後も、長江中流域の重慶に拠点を移し、
インド、ビルマ経由でイギリスやアメリカから物資を輸送されながら
共産党は、外蒙古(モンゴル)経由の
北方ルートからソ連からの補給を受けながら
抗日戦を戦った

 もっとも早く中国に進出していたイギリスは
中国の陶磁器や絹製品などの輸入する一方で
中国には売るものがないイギリスにとっては
対清国との巨大な貿易赤字に苦しみ
やがて、インドやビルマで栽培したアヘンを売って、
貿易黒字に転換し、中国の銀を獲得していくのだ
アヘン戦争による香港島と九龍半島の割譲
新界の租借(1899年から99年間、1997年に香港島等とともに返還)
長江流域に広がった既得権益の維持に汲々としていたわけだ

 フランスは、仏印に陸続きの広州などに権益を持ち
ドイツは青島を拠点に山東半島に権益を持っていたが
第一次世界大戦で海外の拠点をほぼ失った

中国大陸進出に出遅れたアメリカは、1922年
出遅れた自国の利益にとって必要なスローガンである
門戸開放、機会均等、平等互恵を三原則として打ち出した
 これらは全て、アメリカにとっての
門戸開放、機会均等、平等互恵という意味であることは論を待たない

 
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 今から6750年から5530年前の
縄文時代前期にあたる小竹貝塚(富山県呉羽町)で
見つかった人骨が91体だったことを
富山県文化振興財団が発表した。

 貝塚の一部が、北陸新幹線の建設予定地かかるため
2009年と2010年に発掘調査が行われ
その調査結果を発表したもの。

 驚くべきは、これまで日本国内で発見された
同時代の人骨の数(合計80体)を上回る
大量の人骨が発掘されたこと
 
 また、その人骨の細胞中のミトコンドリアのDNAを解析した結果
バイカル湖周辺や北海道で発掘された北方系の人の骨と、
東南アジアから中国南部に多く見られる南方系の
人の骨から見つかるDNA型と同じものが
それぞれ確認されたということだろう。

 この地域に移動してきた人が南からだけではなく
北からも移動してきており
南方系と北方系の人たちが一緒に暮らしていたことが確認されたのだ。


.... 続きを読む

 越南と書いてヴェトナム

 越の南にあった南越は今の広州あたり
そのさらに南が越南といった地理的理解になるのだろう

 中国中原の視界に入っていた、彼らから見た辺境は
東西南北3000Km以上の範囲に及ぶことになるだろう

 「越」は呉越同舟や臥薪嘗胆の故事で有名な揚子江下流の国
越王勾践が呉王夫差を破り呉を滅ぼすものの
 楚の攻撃で越が滅んだのが紀元前4世紀

亡国の民は、多くが海外に亡命した

 何回目かの民族大移動である

ある者は南へ、越南を建国
ある者は東へ
舟山列島から南西諸島を北上、九州を縦断して
落ち着いた先が日本の日本海沿岸部
一帯を越国というようになったという想定が可能ではないか?


 



壬申の乱で敗れたのは大友皇子。
この方は、1200年もの間
即位していなかったとされていたが、
何故かは知らぬが、明治政府から
諡号を追贈されて、弘文天皇とされた。

150年ほど前とはいえ、
長い長い皇室の歴史からすれば、ほんの
ついこの間の出来事である。

この弘文天皇のように即位の事実を抹殺された方も相当多い。

抹殺の理由は、時の大陸の政権から王として認められなかったというのが
一つの理由として挙げられよう。
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 色川武大と阿佐田哲也が同一人物であることは
小説を読んだ人ならだれでも知っている。
 別名であっても同一人物であるこの場合が
日本書紀と古事記の記載においても頻出しているのだ。
これまで書いてきた中では、昆支と雄略がその代表例であるが、
このようなケースは、枚挙に暇がないといえる。

 さて、姫王と書いて、「おおきみ」と読ませる場合がある。

 通常、「おおきみ」とは、「大王」のことを指す。
何故、姫王と書いて、「おおきみ」と読ませる場合があるのだろう?

 姫王がつく7世紀の有名人は、なんといっても「額田姫王」だろう。
万葉集の秀歌をいくつも詠んでいる有名歌人であるが、
彼女は、ただの歌人なのだろうか。彼女の正体は?

 井上靖の小説に「額田姫王」があり、何度も読んだものだが
采女クラスの女性として、中大兄と大海の両者から愛される歌人として描かれている。

 飛鳥時代の才女に違いないのだが、はたして采女クラスの女だったのだろうか?
彼女の父親は誰?
どこで生まれたのか?
なぜ、姫王と呼ばれ、「おおきみ」と読まれる存在なのか?

 アッシを納得させる説にこれまでであったことがなかったのだが

 彼女の出自を解くカギは万葉集に残された彼女の歌の数々から推論できる。



 
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 兄妹、姉弟が愛し合うなどと言う事は
いつの時代においても許されることではない。
それなのに、そうであったが如く思われている
二人の場合が、万葉集や日本書紀に記述されているが
本当だろうか?

 木梨軽皇子と衣通姫
 天智天皇と間人皇女
 大伯皇女と大津皇子の場合などである。


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 書紀や古事記に大王の王宮の場所が
〇〇宮などと記載されていても
宮跡として、藤原京や平城京のように発掘されて
考古学的にも場所が確定されていたりするのは稀で
雄略天皇の斯鬼宮のように、そもそもの場所を
特定できないような宮も多い。

 キプチャック汗国が、別名「金張汗国」と言われたように、
大王が移動可能な豪華な帷幕で
暮らしていたとしたらどうだろうか?


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 カン丘倹の意向を受けた「王キ」が
帯方郡主になったのは
西暦247年である。
王キは、後に列島に大きな影響を及ぼす
王弥の祖父か曽祖父にあたる人である。
 王キの帯方郡太守就任は、つまり
司馬氏の意向を受けた弓遵が246年中に
殺されたことを物語っている。
魏志倭人伝に記された張政の倭国への派遣は
王キの意向を受けたものだった。

 ところが、張政が列島に来た時には
東倭、東川王、狗奴国連合が勝利し
卑弥呼は戦乱のうちに死んだ。
つまり、卑弥呼は247年に死んだと推定されている。
 

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 卑弥呼のことは、「親魏倭王」と
魏志倭人伝に記されだけではなく、
三国史記にも、新羅(辰韓)への送使の記載があり
その存在と活躍の時期は確認されるわけだが、
240年から247年にかけて
列島は動乱に見舞われる。


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三国志が大好きな日本人
魏呉蜀の三国鼎立から西晋の統一まで
の英雄や豪傑の活躍に血がさわぎ、
胸高鳴る感じなのではあるが・・・・

三国志の時代が終わった後の中華の様子は
以外に知られていないのではないか。
蜀は魏に滅ぼされ、魏は西晋に簒奪され
西晋が呉を滅ぼして三国時代は終わる。

しかし、中華統一した司馬氏の西晋は、
わずか30年余で匈奴の劉氏に攻撃されて滅んでしまう。
司馬氏が一番権力を振ったのは
魏の重臣だった時代なのである。

その後の華北は、匈奴、鮮卑などの遊牧民が建てた
五胡十六国が短い興亡を繰り返し、拓跋鮮卑の北魏
が華北を統一するまで150年を要することとなる。
その中でも、東晋の軍事力から独立した
慕容鮮卑の燕国(前・後、南・北・西)が100年と
北燕国を435年に滅ぼした拓跋鮮卑の北魏が王朝として
長い治世を保った。
北魏が東西に分裂したのが545年
西の北周と東の北斉を経て北周を簒奪した楊堅の隋へ。
黄河以南には、東晋が司馬氏の余喘を約100年保つが
420年に宋にとって代わられ、以下、梁、陳と
前王朝の重臣が禅譲と称する王朝簒奪を繰り返し
隋による中華統一まで南朝と呼ばれる王朝が続いた。

300年代から580年代まで
東アジアにおけるスーパーパワーの存在が
希薄な時代、周辺地域に対する影響力が
極端に低下した時代だったのではないか。

倭王武が南朝の宋に送使し上表した文中に
「6国諸軍事」という言葉が出てくる。

武とは、雄略天皇に比定されるのだが

倭、百済、新羅、任那、これで4国
しかし、秦韓と慕韓について問題にされているのを
見たことがない。
秦韓は辰韓で慕韓は馬韓だ
というのが一般的な解釈なのだろうが
果たして、それでいいのだろうか?

   

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